大判例

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最高裁判所大法廷 昭和25年(オ)318号 判決

上告人 国

訴訟代理人 青木義人 外三名

被上告人 大熊俊次

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

本件における被上告人の請求の趣旨は、要するに、被上告人は日本人か父として大正九年七月二日北米合衆国カリフオルニア州において生れたもので、アメリカの国籍とともに日本の国籍を有する日本人である。しかるに昭和一一年七月二五日附をもつて、被上告人は日本の国籍を離脱する旨の届出が内務大臣宛になされているのであるが、右届出は、被上告人の父大熊老之助が、被上告人不知の間に、しかも旧国籍法施行規則三条に反して、父老之助名義をもつてなされたものであるから、右被上告人の国籍離脱の届出は無効である、従つてその後右国籍離脱を前提としてなされた被上告人の国籍回復申請並びに之に対し与えられた内務大臣の許可はいづれも無効である。すなわち、被上告人は未だかつて、日本の国籍を離脱したことも、その後これを回復したこともないことに帰着し、現在、生れながらの日本国籍を保有するものであるから、本訴においてその確認を求めるというにあることは、本件訴訟の経過に徴しあきらかである。しかして、右被上告人の国籍離脱の届出が被上告人主張の如く、被上告人の意思にもとづかず、かつ、父老之助の名義をもつて為された事実は原判決の確定するところであるから、前記被上告人の国籍離脱の届出は無効であり、かつ、その後、右国籍離脱を前提として為された前記国籍回復に関する内務大臣の許可もまた無効であるといわなければならない。

しかるに、被上告人の戸籍簿には、現に、右国籍の離脱ならびに回復に関する記載のなされていることは、原判決の確定するところであり、かかる戸籍の訂正をするには戸籍法一一六条によつて、確定判決を必要とすることはあきらかであるから、被上告人は、少くともこの点において、本訴確認の判決を求める法律上の利益を有するものというべきである。

ただ上告人は戸籍法一一六条によつて国籍回復の戸籍の訂正をするがためには、判決の主文において国籍回復の許可の無効なることを宣言する確定判決を要する旨主張するけれども、同条は確定判決の効力として戸籍の訂正を認めるものではなく、訂正事項を明確ならしめる証拠方法として、確定判決を要するものとする趣旨であるから、判決の主文と理由とを綜合して訂正事項が明確にされている以上、必ずしも、主文に訂正事項そのものが表現されていることを必要としないと解すべきである。論旨は理由がない。

すでに如上の点において本訴確認の訴に確認の利益ありと解する以上、この点に関する原判決の判断は正当であり、他の上告論旨に対する判断をするまでもなく、本件上告はこれを棄却すべきものである。

よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官真野毅、同島保、同河村又介を除くその余の裁判官全員の一致した意見によるものである。

裁判官島保、同河村又介の意見は次のとおりである。

本件訴訟の実質は、被上告人がなした日本の国籍回復申請に対する内務大臣の許可の無効を主張するものにほかならない。訴の形式は、被上告人が日本の国籍を現に有することの確認を求めることとなつているが、被上告人が日本の国籍を有することについては、訴訟当事者間において少しも争われておらず、本件訴訟の唯一の争点は、被上告人のした日本の国籍回復申請に対する内務大臣の許可が無効であるか否かという点にあるのである。そして被上告人は、右国籍回復の申請ならびに許可の無効は、その前になされた被上告人の内務大臣に対する日本国籍離脱の届出が、被上告人不知の間に、父大熊老之助によつて同人の名義をもつてなされたことの当然の結果であると主張するのである。しかし被上告人は、前記国籍回復を内務大臣に申請した当時は日本国内に居住していたのであり、被上告人はみずからその申請をなし、内務大臣の許可を得て一家を創立して東京都内に戸籍の届出をした上、さらに福岡県下に転籍までしたものであることは、当事者間に争がない事実として、原判決の確定したところである。してみれば、被上告人は少くとも国籍回復を内務大臣に申請した当時においては、みずからその意思を表明して国籍回復を申請して権限ある国家機関の許可を得て戸籍の届出をしたものである。それにもかかわらず被上告人は、本件訴訟においては、自己がかつてなした右の表示と全く矛盾した主張をして、国籍回復の申請に対する内務大臣の許可という行政庁の処分を当然無効であるとして否定するのである。しかし、かかる主張の許されないことは、禁反言の原則からしても明らかであるといわなければならない。されば、本件国籍回復申請ならびにその許可を無効であると判断して被上告人の主張を認めた多数意見には賛成することができないのである。ところで、行政事件訴訟特例法附則四項、昭和二二年法律七五号(日本国憲法の施行に伴う民事訴訟法の応急的措置に関する法律)八条但書によれば、行政庁の違法な処分の取消又は変更を求める訴は、処分の日から三年を経過したときは、これを提起することができないと規定されている。本件国籍の回復は、被上告人みずから申請して内務大臣の許可を得て戸籍の届出までをもしたものであり、被上告人においてこれを当然無効などと主張し得るものでないことは、前に説明したとおりであるから、被上告人がその効力を争うとするには、前記法律の規定する出訴期間内に訴を提起して国籍回復許可の取消を求め得べき事由を主張しなければならないのである。しかるに、本件国籍回復申請に対し内務大臣の許可があつたのは、昭和一七年九月九日であり、本件訴訟が第一審裁判所へ提起されたのは六年余を経過した昭和二四年中であつたことは、記録上明らかである。それゆえ、本件訴訟においては国籍回復の効力を争うことは、もはや許されないのであるから、かかる争を実質とする本件訴訟は、却下を免かれないものといわなければならない。

裁判官真野毅の反対意見は次のとおりである。

わたくしは、破棄意見であるから、その理由を述べる。

原審において被上告人(控訴人)は、「控訴人が出生による日本の国籍を現に引続き有することを確認する」旨の判決を求め、原審はその請求どおりの主文を掲げる判決をした。

しかし、確認の訴は、法律が特に認めている場合(たとえば民訴二二五条)を除き、現在の法律関係の存否の確定を目的とするものに限り許されるのである。事実関係の存否又は過去の法律関係の存否の確定を求めることは、確認訴訟の対象とすることをえない。

元来日本の国籍は、一様に日本国民たる法律上の地位すなわち身分であつて、その国籍取得の原因が出生であると、帰化であると、国籍回復であるとに従つて別異の国籍の存在することは認められていない。(これは恰かも所有権の内容は一様であつて、その取得原因が売買であると、贈与であると、相続であるとに従つて別異の所有権の存在が認められていないのと相似ている。)

国籍についての確認訴訟の対象として、「出生による日本の国籍」と「出生によらない日本の国籍」という二種類の異つた国籍が存在するわけではない。出生による国籍であるか、出生によらない国籍であるかは、単に国籍取得の原因に関する区別たるに過ぎないものである。それ故、「出生による日本の国籍を現に引続き有すること」の確認を求める請求の趣旨中の「出生による」という部分は、国籍取得の原因たる過去の事実関係の確定を求めるものであつて、確認訴訟の対象としては許されない。残るところは、日本の国籍を有することの確認だけであるが、この点については当事者間に争いがない本件においては、確認を求める法律上の利益がないと言わなければならぬ。

われわれ一般大多数の日本国民は、「出生による日本の国籍を現に引続き有すること」は真実であるが、確認訴訟の請求の趣旨(判決の主文)としてこれを求めることのできないのは前述のごとく確認訴訟の性質から来る当然の帰結である。それ故、一般日本国民がかかる確認訴訟を起こしても、日本の国籍を有することの確認を求める以外の部分は、請求として不適法であることは、おそらく誰の眼にも一見明らかであろう。

この道理は、本件被上告人のように外国の国籍を有する日本国民であると主張する者に対しても同様にあてはまるわけであつて、「出生による日本の国籍を現に引続き有すること」は真実であつても、確認訴訟の対象として訴求することは性質上許されないのである。

わたくしは、本件の請求原因からすれば、被上告人が「外国の国籍を有する日本国民であること」の確認を求めることは、可能であり、適法であり、またそれによつて十分目的を達することができたであろうと思う。わが国籍法においては、「外国の国籍を有する日本国民」について特別の取扱をなし、日本の国籍を離脱することができる旨を規定している(国籍法一〇条、旧国籍法二〇条ノ二、二〇条ノ三)。だから、国内法で国籍事務の取扱上「外国の国籍を有する日本国民」という要件(身分)の有無は、国内的に判断せらるべき事柄であり、従つて訴訟上の問題となつた場合には裁判所で判断の対象となるは当然である。本件の場合には、外国を具体的にいつて「米国の国籍を有する日本国民たること」の確認を求めてもよい。といつて、請求どおりの確認があつた場合においても、もとより外国ないし米国に対して判決の直接の効力が及ぶわけではなく、ただ国内的処理の必要上二重国籍を有する日本国民たることを確認するに過ぎない。そしてこれは事実関係にもあらず、過去の法律関係にもあらず、現在の法律関係であるから、確認訴訟の対象として適法であることは明らかである。本件で存否の確定を要する法律関係は出生による日本国民ということではなくして、外国の国籍を有する日本国民ということであつた、とわたくしは考える。

多数意見は、原審において被上告人の求めた請求の趣旨および原判決の主文の適法注について何等判断を示していないが、わたくしは上述のごとく原審における被上告人の請求の趣旨は不適法であり、従つてこれをそのまま主文として掲げた原判決は違法であると信ずる。それ故、原判決を破棄し、被上告人の訴を却下するを相当とする。

(裁判官 田中耕太郎 真野毅 小谷勝重 島保 斎藤悠輔 藤田八郎 河村又介 小林俊三 入江俊郎 池田克 垂水克己 河村大助 下飯坂潤夫 奥野健一 高橋潔)

上告人指定代理人石井良三、掘内恒雄、岡本元夫の上告理由

原判決には、いわゆる確認の利益に関する法の解釈適用を誤つた違法がある。

原判決は、「控訴人(被上告人)の有する日本国籍が出生によるものであれば控訴人は北米合衆国の国籍を依然として保有するが、これに反し国籍回復の許可によるものとすれば北米合衆国の国籍法によつて同国の国籍は失われると謂う関係にあつて、そのいずれによるものであるかは控訴人が北米合衆国の市民権を有するか否かという現在の身分に直接関係があるのみならず、控訴人はさしあたり日本国家から国籍回復により日本の国籍を取得したものとして取扱われその国籍取得の経過は前記のように戸籍簿に記載されているのであるから、控訴人の国籍取得の原因が前記のように国籍回復の許可によるものでなく出生によるものとすれば、控訴人としては少くとも判決によつて戸籍の訂正をなす必要があるから(この場合の戸籍の訂正は国籍回復の許可行為に関する判断を含むから戸簿法第百十三条の家庭裁判所の許可によつて戸籍の訂正をすることはできないものと解する)、控訴人の有する日本の国籍がそのいずれによるものであるかについて本件当事者間において争いがある以上、控訴人は出生によつて取得した日本の国籍を現に有するものであることを即時に確定する法律上の利益を有することは謂うまでもない。」と説示して、「控訴人が出生による日本の国籍を現に引続き有することを確認する。」という判決をしているが、これは昭和二十四年(オ)第二四号事件について、昭和二十四年十二月二十日に言い渡された最高裁判所第三小法廷の判決と明かにてい触するので、判例の統一を求めるため上告した次第である。なお「本件の御審理に当つては、前記第三小法廷の判決理由の外、次の諸点についても十分御考慮を煩わしたい。

第一、原判決は、前記のように、被上告人の有する日本国籍が出生によるものであるかどうかは、被上告人がアメリカ合衆国の市民権を有するか否かという現在の身分に直接関係があるから、被上告人が出生によつて取得した日本の国籍を現に有するものであることの確認を求める被上告人の本訴請求は確認の利益があるといつている。しかしながら、被上告人が現にアメリカ合衆国の市民権を有するか否かということは少しも争われていないのである。被上告人がアメリカ国籍を有するか否かという点をめぐつて現に当事者間に法律的紛争がある場合ならいざ知らず、そうした紛争が全くない本件において、被上告人の請求を認容するかどうかは被上告人がアメリカ国籍を有するか否かという現在の身分に直接関係があるからという理由で、確認の利益を肯定することはできない。確認の訴は、一般に一定の法律関係を確定することによつて現に生じている法律上の紛争を解決することを目的とするものであるから、戸籍法第百十六条のような特別の規定のない限り、具体的な法律上の紛争のないところに確認の利益がある筈がない。被上告人の主張によれば、被上告人は日米二重国籍人なのである。しかして被上告人が日本の国籍を有することは当事者間に争のないところであり、被上告人が日本国籍の外にアメリカ国籍を有するかどうかの点は、現在、当事者間に少しも争われていないのである。こうした場合には、被上告人は訴によつてアメリカ国籍を有することの確認を求める利益を欠くものと考える。現に法律上の争が生じた場合に確認の訴を提起すれば足るからである。従つて仮りに、被上告人の有する日本国籍が出生によるものであるかどうかによつて、被上告人が現にアメリカ国籍を有するか否かが定まる関係にあるとしても、このことから当然に被上告人の本訴請求は確認の利益ありと断ずることはできないと思う。

いつたい、被上告人の有する日本国籍が出生によるものであるかどうかは、果して、原判決の説くように、被上告人がアメリカ合衆国の市民権を有するか否かという現在の身分に直接関係のある事柄であろうか。判決は主文に包含するものに限つて既判力を有し、理由中の判断には及ばないのであるから、「控訴人(被上告人)が出生による日本の国籍を現に引続き有することを確認する。」という原判決によつては、ただ、被上告人が現に出生による日本国籍を有することが法律上確定されるだけであつて、被上告人が日本の国籍と同時にアメリカの国籍をも併有するかどうかは全く別個の問題である。従つて訴訟法的には被上告人が現に出生による日本国籍を有するかどうかということと被上告人がアメリカ国籍をも併有するかどうかということとは、全く無関係な問題であつて、両者の間には毫も関連があり得ない筈である。そうだとすれば、両者の間に「直接係関がある」と説く原判決は果して正当であろうか。上告人は疑なきを得ないのであつて、原判決はこの点においても再吟味されて然るべきものと考える。もつとも、本件の場合に原判決が理由中の判断において示すように、父老之助のなした国籍離脱の届出が無効なものであり、従つてまた内務大臣の国籍回復の許可がその効力を生ぜず、結局被上告人は出生によつて取得した日本国籍を現に保有するものだとすれば、被上告人が日本人を父として米国において出生したという事実と相まつて、彼が日米両国籍を有することを認定することができよう。いいかえれば、被上告人が出生による日本国籍を有することの確認は、国籍離脱の届出と国籍回復の許可がともに無効であること、被上告人が日本人の子として米国で生まれたことと相まつて始めて意味を持ち、ひいて被上告人が現にアメリカ国籍を有するか否かの問題と関連を生ずるのである。しかも重要な点は、この関連を生ぜしめる契機となる法律要件が原判決の主文のうちに包含されていないということである。判決によつて確定された甲という法律関係に他の未確定の乙という法律用件が加わつた場合に始めて丙という現在に身分関係を確定することできるような場合に、甲なる法律関係はそれ自体において独立して確認訴訟の対象となり得るか、これが本訴における論議の一焦点なのである。上告人は、このようにそれ自体において独立の意味を持たず、他の要件が加わつて始めて法律的な意味を持つような事項は一般に確認訴訟の対象にならないと解するのが妥当ではあるまいかと考える。若し、こうした事項まで確認訴訟の対象となるものとすれば、無用の訴訟がふえて、当事者も裁判所も煩に堪えないことになり、訴訟本来の目的に反する結果になるからである。被上告人が出生による日本国籍を有することを確定した原判決は、結局において被上告入がその主張のように果して日米二重国籍を有するかどうかを判断する場合における単なる一資料に過ぎない。判断資料を作るために確認の訴を認める必要はない。二重国籍の有無が争われた場合に直接二重国籍を有することの確認を求めしめれば足りる。

第二、被上告人の戸籍に記載されている国籍回復の許可が原判決のいうように効力のないものだとすれば、戸籍法第百十六条の規定によつて、その記載は確定判決により訂正さるべきものであることは原判決の説く通りであろう。ただこの場合の確定判決は、行政上の便宜のためにする取扱はしばらく別として、理論上は国籍回復の許可そのものが無効であることを宣言する確定判決でなければならないと考える。判決の既判力は主文に包含するものに限られ、理由中の判断には及ばないのであるから、たとえ理由中に国籍回復の許可が無効であることの判断がなされていたとしても、それが主文に表示されていない限り、国籍の回復許可という戸籍上の記載が法律上果して許すべからざるものであるかどうかの点については、確定判決による判断がないわけであるから、その判決謄本を添付して戸籍の訂正を申請することはできないものと解すべきではあるまいか。従つて、被上告人が出生による日本国籍を有することの確認を求めることは、戸籍訂正との関係においても確認の利益を欠く。被上告人は直截簡明に国籍離脱と国籍回復許可の無効確認を求めるべきである。これによつて、被上告人の所期の目的は、法律上の疑義を残すことなく、完全に達せられるのである。事を好んで奇を求める必要はない。原審もこの点に関し釈明権不行使の違法を犯したものというべきであろう。

以上のような理由から、原判決にはいわゆる確認の利益に関する法の解釈適用を誤つた違法があり、とうてい破毀を免れないものと考える。

以上

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